20代のころ、旅は現実から逃げるためのものだった。
接客業をしていた日々の生活では、本当の意味で心を落ち着けられる時間がなかったし、落ち着かせる術も持ち合わせていなかった。
30代になってからの旅は、日常で見落としているものをあらためて見つけるための時間に変わっていることに気づく。
今年の夏に、ひとりで1泊2日の弾丸京都の旅へ行ったときのこと。
35度の炎天下、湿度が高くてサウナのような街の中を歩き、人混みを搔き分けるのがしんどくて、逃げ場を探してはなんども喫茶店に駆け込んだ。
Googlemapとにらめっこしていると、大抵の場所は鴨川を軸にして回れば歩けることに気づく。
「ああ、京都は鴨川沿いを歩いてさえいれば、どこでも目印になってくれるんだな。」
方向音痴のわたしに寄り添ってくれるような、頼もしい味方を見つけて、ホッとして目的地をぐるぐる回る。
日差しの少ない鴨川沿いの遊歩道を歩いている人は少なく、人ごみでごった返した街の中を歩くよりもずいぶんと心地いい。
歩きつかれたら、すぐに入れる喫茶店もカフェもあるから安心。
繁華街の近くに、こんな大きな川と遊歩道がある街っていいな。
歩いているわたしのそばを、小さなツバメが何羽もぎゅんぎゅんと勢いよく回っている。
川に目をやると、カモがのんびりと泳いでいた。
「鴨川って本当にカモがいるんだ」と驚きながら広い空に目を移せば、今度は大きな羽根を広げて優雅に飛ぶシラサギのような鳥。
繁華街に近い川なのに、遊歩道から感じられる自然の風景になんとも心が惹かれる。
鴨川を歩くだけで、京都に来る意味はあるのではないか。そんな風に思うほど、鴨川の景色に魅了されている自分に気づく。
「いいなぁ、こんな風に街中で自然を感じられて。」
そんな風に羨ましくなった瞬間に、気づいた。
わたしの住む下町に流れる隅田川にも、毎日のようにユリカモメがびゅんびゅんと飛んでいる。
おそらくアオサギだったであろう大きな鳥だって、テラスでふんわりと羽根を休めていたことがあった。
鴨川の遊歩道のように広くはないけれど、浅草から浅草橋駅まで続く隅田川テラスもある。
規模は違えど、わたしにとっては大切な風景だ。
ないものを必死に羨ましがって、そんな旅先と離れがたかったのが20代のころのわたしの旅。
今回京都を旅して気づいたのは、日常の中にも旅で見つけたものと同じものが眠っているということだった。
以前は、旅から家に帰ってくるのがとても嫌だった。いやおうなく現実の世界に引き戻されるから。
でも今は、家に帰った瞬間に笑顔で「ただいま!」と言いたくなる。
それは、わたしにとって旅が逃避ではなく、日常のうつくしさを改めて感じられるものに意味が変わってきたから。
だから、いつもの現実に戻っても大丈夫。
いいものを感じられた旅に感謝して、同じくらい素敵なものを日常の中に見つけに行くのだ。
いつ転んでも、また立ち上がれるように。
次に読むなら、鴨川沿いの眺めのいいデザインカフェを